瞑想とBSセラピーについて⑥
>また、ヴィパッサナーを続けていくと、体とは固定化したものではなくて、流動的なものであると見えるようになってきます。
>体は生成消滅しているのです。それを知識で知るのではなくて、そのように見えてくるのです。
>すると、体が生成消滅している空間としてのエネルギー場、より深い私という視点も開けてきます。
前回の記事でこのような事を書きましたが、今回はここを詳しく書きたいと思います。
ヴィパッサナーとは、要するに体全体に意識の光を浸透させていくという事です。
そして意識が深まるにつれて、徐々に体が粒子であり、その粒子を生み出している場と一体であると感じられてきます。
深い瞑想状態の時にはそのようにみえてきます。
その意識深化のプロセスを、BSセラピーは大きく早めてくれるのです。
それが、最初の頃に受けた時に「これは他のモノとは全然違う!!」と感じた事の一つでした。
ただ単にリラックスしているとか、体がゆるんでいるだけではないのです。
正直瞑想にしか興味が無く、体が健康になるとかは僕にとっては二の次でした・・^^;
しかしなぜ、それが大切なのでしょうか?
最終的には 体=自分 と思っている事から自由になる事が、解放だからです。
体=自分 と思っているので、体は硬く縮こまり、意識の光が届かず
暗黒領域のようになってしまい、そこに感情のエネルギーが深く溜まっているからです。
そして、その固く縮こまった、幻想の「自己」を守るために、日々そのエネルギーは無意識に反応をし続け、体はますます硬くなってゆくのです。
そして、そのエネルギー体(無意識に自分と想定した、体に深く溜まっている感情)は
究極は「自己を失う恐れ(死)」に起因しているのであり、その「根源的な恐れ」は
いつも言うように脳幹を起点とした脊椎周辺にたまっています。
なので、BSセラピーでその中枢から最適にエネルギーを活性化して中心からほぐすこと、
そして
出てきた感情を身体全体で消していくというコンボなのですが、更に深い意味としては
体の粒子と意識の空間を一体と感じていく事、にあります。
BSセラピーをすると、体を構成している粒子の密度が粗(あら)くなります。
物質の密度が粗くなるという事は、その分そこに意識の光が浸透しやすくなるという事です。
そしてそのように 体がガチッとした固体ではなく、粒子の集まりであると感じられ、
そこに意識が浸透して、その粒子をが存在している空間そのものだと感じられてくると
「体=私(個)」という感覚が薄れてくるのです。そして、だんだん楽になっていきます。
この事をエックハルト・トールはこのように表現しています。
「思考に囚われた体不在の状態から、体に意識が住まうようになってくると、肉体は以前より軽く、クリアーで、生き生きと感じられます。身体中の意識の割合が増えるために、細胞の分子構造の密度が粗くなるからです。意識の割合が増えると、物質に対する幻想は減ってきます。」
そしてこの事を以前BSセラピーの駒川先生にお聞きしたところ「その通りです」との回答をいただきました。
つまり、BSセラピーとヴィパッサナーは深い部分で全く同じ認識を目指していたのです。
それが、この両者を根源的な癒しのツールとして推薦してきた最も深い意味でもあります。
もう少し説明していきたいと思います。
「自分」と「世界」という区別のある視点からすると、ある一つの大きな法則が働いています。
それは、「自分の内側にある状態を、外の世界にも映し観る」という法則です。
自分の中に恐れがあれば外に世界にも恐れを、愛があれば愛をを見る・・・etc
というのはスピリチュアルの世界では有名な事だと思いますが、
もう一つ深い視点としては
体がガチッと「個」の感覚であれば、世界もそのように固く、重たい世界に見える。
つまり先ほど書いた
「体=自分 と思っているので、体は硬く縮こまり、意識の光が届かず
暗黒領域のようになって、そこに感情のエネルギーが深く溜まっている」
と同じ様に、世界も見えてくるのです。
逆に体(自分)に意識の光が浸透して、それが空間に浮かぶ粒子のように感じられてくると
世界にも同じように意識の光が浸透して、明るく、ふわっと軽い世界に見えてくるのです。
今思っているような硬直化・個別化された世界には見えなくなります。
そして体を通してそのように悟りを開いて行くという事は、一時的な理解や至高体験や幸せ期間ではなく、徐々に確実に、そして恒久的にそのような意識の状態に落ち着いていけるという事です。
そして「体の全ての部分に心が在る」ため、体の全てにくまなく意識の光を浸透させる事によって、完全に心が浄化されます。
言うは易しで、これには何十年もかかると思いますが・・・
今久しぶりにこの本の全体に目を通して「さとりは、からだを通してひらくもの」という、ズバリそのまんまな章を発見しましたが、やはり古代のブッダの教えと、現代のブッダであるエックハルトの教えは、同じものだったわけです。
最後に、何度も言う様ですが「悟り」とは何も特別な事ではなく、ただ心理的な苦しみから解放され、幸せに今を生きている状態を指しています。その状態を指す言葉は何でもいいのです。
~ つづく ~
お知らせ:9月13日に大阪にて瞑想会を行います。
お問い合わせは左上のメールアドレスまでお願いします。
>体は生成消滅しているのです。それを知識で知るのではなくて、そのように見えてくるのです。
>すると、体が生成消滅している空間としてのエネルギー場、より深い私という視点も開けてきます。
前回の記事でこのような事を書きましたが、今回はここを詳しく書きたいと思います。
ヴィパッサナーとは、要するに体全体に意識の光を浸透させていくという事です。
そして意識が深まるにつれて、徐々に体が粒子であり、その粒子を生み出している場と一体であると感じられてきます。
深い瞑想状態の時にはそのようにみえてきます。
その意識深化のプロセスを、BSセラピーは大きく早めてくれるのです。
それが、最初の頃に受けた時に「これは他のモノとは全然違う!!」と感じた事の一つでした。
ただ単にリラックスしているとか、体がゆるんでいるだけではないのです。
正直瞑想にしか興味が無く、体が健康になるとかは僕にとっては二の次でした・・^^;
しかしなぜ、それが大切なのでしょうか?
最終的には 体=自分 と思っている事から自由になる事が、解放だからです。
体=自分 と思っているので、体は硬く縮こまり、意識の光が届かず
暗黒領域のようになってしまい、そこに感情のエネルギーが深く溜まっているからです。
そして、その固く縮こまった、幻想の「自己」を守るために、日々そのエネルギーは無意識に反応をし続け、体はますます硬くなってゆくのです。
そして、そのエネルギー体(無意識に自分と想定した、体に深く溜まっている感情)は
究極は「自己を失う恐れ(死)」に起因しているのであり、その「根源的な恐れ」は
いつも言うように脳幹を起点とした脊椎周辺にたまっています。
なので、BSセラピーでその中枢から最適にエネルギーを活性化して中心からほぐすこと、
そして
出てきた感情を身体全体で消していくというコンボなのですが、更に深い意味としては
体の粒子と意識の空間を一体と感じていく事、にあります。
BSセラピーをすると、体を構成している粒子の密度が粗(あら)くなります。
物質の密度が粗くなるという事は、その分そこに意識の光が浸透しやすくなるという事です。
そしてそのように 体がガチッとした固体ではなく、粒子の集まりであると感じられ、
そこに意識が浸透して、その粒子をが存在している空間そのものだと感じられてくると
「体=私(個)」という感覚が薄れてくるのです。そして、だんだん楽になっていきます。
この事をエックハルト・トールはこのように表現しています。
「思考に囚われた体不在の状態から、体に意識が住まうようになってくると、肉体は以前より軽く、クリアーで、生き生きと感じられます。身体中の意識の割合が増えるために、細胞の分子構造の密度が粗くなるからです。意識の割合が増えると、物質に対する幻想は減ってきます。」
そしてこの事を以前BSセラピーの駒川先生にお聞きしたところ「その通りです」との回答をいただきました。
つまり、BSセラピーとヴィパッサナーは深い部分で全く同じ認識を目指していたのです。
それが、この両者を根源的な癒しのツールとして推薦してきた最も深い意味でもあります。
もう少し説明していきたいと思います。
「自分」と「世界」という区別のある視点からすると、ある一つの大きな法則が働いています。
それは、「自分の内側にある状態を、外の世界にも映し観る」という法則です。
自分の中に恐れがあれば外に世界にも恐れを、愛があれば愛をを見る・・・etc
というのはスピリチュアルの世界では有名な事だと思いますが、
もう一つ深い視点としては
体がガチッと「個」の感覚であれば、世界もそのように固く、重たい世界に見える。
つまり先ほど書いた
「体=自分 と思っているので、体は硬く縮こまり、意識の光が届かず
暗黒領域のようになって、そこに感情のエネルギーが深く溜まっている」
と同じ様に、世界も見えてくるのです。
逆に体(自分)に意識の光が浸透して、それが空間に浮かぶ粒子のように感じられてくると
世界にも同じように意識の光が浸透して、明るく、ふわっと軽い世界に見えてくるのです。
今思っているような硬直化・個別化された世界には見えなくなります。
そして体を通してそのように悟りを開いて行くという事は、一時的な理解や至高体験や幸せ期間ではなく、徐々に確実に、そして恒久的にそのような意識の状態に落ち着いていけるという事です。
そして「体の全ての部分に心が在る」ため、体の全てにくまなく意識の光を浸透させる事によって、完全に心が浄化されます。
言うは易しで、これには何十年もかかると思いますが・・・
今久しぶりにこの本の全体に目を通して「さとりは、からだを通してひらくもの」という、ズバリそのまんまな章を発見しましたが、やはり古代のブッダの教えと、現代のブッダであるエックハルトの教えは、同じものだったわけです。
最後に、何度も言う様ですが「悟り」とは何も特別な事ではなく、ただ心理的な苦しみから解放され、幸せに今を生きている状態を指しています。その状態を指す言葉は何でもいいのです。
~ つづく ~
お知らせ:9月13日に大阪にて瞑想会を行います。
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